仏教とキリスト教の違い
年末年始、3日間、実家に帰って体調を崩したわけですが、クリスチャンは経済的にクリーンでなければならない、ということを実感しました。3日間、衣食を両親に依存したためにおきたことと、異教徒の寺院である成田山に参拝したためにおきたことと原因は二つ考えられます。いろんな意味でクリーンでなければならないということなんじゃないかと思います。1月2日に自分の部屋に帰ってから3日、4日と体調を崩し4日の夜に断食を余儀なくされ、6日たって、ほぼ元通りの体調になりました。それから、体調の回復とともに、それまで悩まされていた健忘症が治りました。3ヶ月くらい、悩まされていたんですが、体調の回復とともに頭のほうも回復してきました。ある種の回心体験なんじゃないかと思われます。心身の健康は聖霊の恵みです。あまり、このブログが迷信的な内容にならないように気をつけてはいますが、過去にも同じような回心体験を経験しているので、その時と状況がよく似ているなと思い、そのような解釈になりました。罪と体調の異変は連動しているんです。何の変哲もない実家への帰省に見えますが、そういうことがクリスチャンにとっての罪になるんだと思います。罪を犯して回心体験がおとずれると、それ以前の罪も浄化されます。それが健忘症の回復につながったんじゃないかと思うわけです。実際、修道院に入ったクリスチャンは、仏教と同じで帰省することはありません。そこのところの考え方が甘かったんじゃないかと思うわけです。実際、仏僧を見ても世俗ばなれしているわけですが、しかし、そこのところの性質はクリスチャンとは違います。仏僧の修行が積極的であることにたいして、クリスチャンの回心は非常に受動的であることが多いような気がします。使徒行伝の「パウロの回心」などがその代表です。キリスト教と仏教の共通点を俯瞰で語る宗教学者がいますが、私は、けっしてそのような考え方は支持しません。ブッダが一代聖教であることにたいして、キリスト教は神との合一を目指す、というか結果的に神との合一が達成されるわけです。これはキリストが磔刑(たっけい)になったことで完成した神の業(わざ)です。それが、キリストがわれわれの生贄(いけにえ)になったと言われるゆえんです。キリスト以外に神への生贄はないと「ヘブライ人への手紙」にも書かれています。カトリック教会では数々の殉教者が聖者として称えられていますが、それらはすべて枝葉末節に過ぎません。ミサにおける生々しい生贄の儀式もそこに由来しているわけです。キリストの血と肉を捧げることで神への感謝を表すのがミサですが、これはキリストが殺されたことによって、私たちの罪が赦(ゆる)されたことを自覚することを目的としています。それを自覚することは私たちにとっては痛みに他なりません。その痛みが、私たちが一人前のクリスチャンになるための絶対条件となるわけです。わたしはミサへは行かず、一人で聖書を読みその痛みを知りました。ですから、私は教会のミサへは行く必要がないわけです。教会のミサは、まだその痛みを知らない人が行くものだと私は理解しています。そのような力強い神への帰依に比べたら仏僧の修行などナンセンスだと私は思うわけです。それらはすべて、キリストの磔刑によって成し遂げれれたもので、私たちが積極的に行うものなど何一つないわけです。そこのところが仏教とキリスト教の違いです。
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