人生のバイブルはバイブルである
家族との付合いで成田山参拝で体調を崩して回復してから、精神面で非常に好調をキープしているのですが、その反面、人間関係の軋轢が発生するようになりました。一部の人たちが私の弱点である、見た目のコンプレックスなどを攻撃してきます。このようなことは霊的な充実と比例して起こってくるようです。山上の説教の冒頭部分「真福九端」の有名な一節「心貧しいものは幸いである」の裏返しの状態に今、あるわけです。心が充実しているときには、多くの人たちに敵意を抱かれるようです。「全てのものがあなたがたの敵になる」とイエスは予言しています。また、「迫害されたときには喜びなさい、大いに喜びなさい」というのが「真福九端」の締めくくりです。磁石のS極同士、N極同士が反発するような状態だと私は解釈します。磁力が弱い時にはあまり反発も起こらないが、磁力が充実している時には多くの反発を生むことになるんじゃないかと、そのように解釈します。しかし、私は今ハヤリのジハーディストではありません。イエスは「蛇のように賢く、鳩のように柔軟にふるまいなさい」と弟子たちを町へ送り出す際に述べました。また山上の説教においては「あなたの敵を愛しなさい。あなたを迫害する者のために祈りなさい」と教えています。これは、宣教の核心だと言っても差し支えないと思います。例えばフィリピンはもともとイスラム国でしたが戦争の末にキリスト教国となりました。それは単純にスペインの植民地支配のためではなく、愛のわざだと私は思います。
ところで、その山上の説教はクリスチャンにとってはバイブル中のバイブルです。よく、もののたとえで「この本は私のバイブルです」という人がいますが、「だったら本物のバイブルを読めばいいのに」と私は思います。キリスト教そのものが日本人にとっては灯台もと暗しだと私は思います。今、韓国では人口の約30パーセントがキリスト教徒だと言われていますが、枝葉末節にこだわって本質を見失う日本人の国民性がそのへんによく現れているなと思います。「金持ちが天の国に入るより、ラクダが針の穴を通るほうが易しい」とイエスは述べていますが、そういう意味では日本人は韓国人に比べて度胸が足りないんじゃないかとも思います。改宗するためには全てを捨てなければいけないからです。その点、日本人はチマチマしていて、執着心が捨てきれない。ちなみに「天の国に入る」というのは「クリスチャンになる」という意味で、「天国へ行く」という意味ではありません。日本語訳聖書の中には「天国」と訳している聖書もありますが、英訳すると天国は heaven、天の国は the kingdom of heaven で同意語ではありません。それに対して、神の国つまり the kingdom of God と the kingdom of heaven は同意語です。私たちの宣教の目的は、神の国に人々を導くことで、天国へ導くことではありません。神父ですら誤解している人もいます。神の国というのはこの世で実現するものであってあの世で実現するものではありません。そのへんも含めて、私は、日本語訳聖書は新共同訳聖書をおすすめします。
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