何を悔い改めるのか?
クリスチャンへの改宗の第一歩は、自分の罪を悔い改めることですが、何が罪であるのか知らなければ悔い改めることはできません。私自身は、クリスチャンであるフィリピン人女性と出会ったことがきっかけで悔い改めることになりましたが、悔い改めに至る、つまり自分の罪を自覚するまでに、出会ってから2年かかりました。私が彼女に出会ったのは、2010年の1月でしたが、私が彼女の影響下で悔い改めに至ったのは2012年の春でした。彼女はスナックのホステスでしたが、2011年の12月にやめて、カタギになりました。彼女がカタギになったことで、私自身の過去を問われることになりました。私は20代の始めに親の金で放蕩生活をしていました。その時代の特に性的にみだらな生活をしていた、つまりフウゾク通いをしていたことを強く汚らわしく感じたことが、私の場合の、悔い改めとなりました。クリスチャンという見本がいることで、自分の犯した罪を自覚することができます。より親密であればなおさらのことです。彼女はホステスをやめてフィリピンに帰ったのですが、2~3ヶ月して戻ってきた時に、私に向かって「あなたは日本のお兄さん」だと言いました。その発言で追い詰められて、私は彼女に恥をかかせてはいけないと思い、悔い改め、洗礼を受けることを決意しました。それまでの2年間は、私は彼女やスナックのほうを責めてばかりいて自分の罪に対しては全く無自覚でした。ですから、私は私がクリスチャンであることに対して周りの人々が無関心であっても、彼らの気持ちがよく理解できます。彼らはむしろ私の非を責め立てるでしょう。「すべてのものがあなたがたの敵となる」とキリストは予言しています。それと同時に「あなたがたの敵を愛せ」とも言っています。教会の原点であるローマ帝国もかつてはクリスチャンの迫害者でした。江戸時代のキリシタンの迫害と同じことをしていました。ですから私たちクリスチャンは全ての人に対して分け隔てなく改宗者として忍耐強く接していかなければならないわけです。それが元ホステスのフィリピン人女性が私に対してしてくれたことであり、結果として私自身もクリスチャンとなることができたわけです。新約聖書の大部分をしめている書簡の著者であるパウロは、元々、イスラエル人の右翼でクリスチャンの迫害者でした。しかし、迫害中に道でたおれました。そして洗礼を受け目からウロコのようなものが落ちたと新約聖書の使徒行伝に書かれています。「目からウロコ」という言葉の由来は実は聖書にあるわけです。街頭でクリスチャンの方々よく「悔い改めなさい」という内容のテープを流していますが、なんらかのタイミングがひとそれぞれあって、そう簡単にはいかないのが現実です。私もかつては素通りしていましたが、今ではその意味がよくわかります。あのテープの男性が言っていることは実はキリスト教のエッセンスなんです。けっして何かの強迫観念にとりつかれてしゃべっているわけではないわけです。胡散臭いといえば胡散臭いですが、言ってることは100%正しいわけです。それでも素通りしてしまうのは、かつての私もそうだったので、素通りしてしまう人たちの気持ちもよくわかりますし、一生懸命スピーカーを支えている人たちの気持ちも今ではよくわかるわけです。まさに洗礼とは「目からウロコ」であるわけです。あのテープはアンクリスチャンにとっては、自作の詩か何かを朗読しているように聞こえますが、改宗者にとっては実はごく当たり前のことをいっているんです。あえて欠点を言えば直球すぎるところでしょうか。私にとっても宣教とはどうあるべきなのか、非常に悩ましいところです。
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