特別な修行が必要なわけではない
マタイの福音書の22章に「招かれるものは多いが選ばれるものは少ない」と、イエスは大変、厳しいことを言っています。読む人によっては、クリスチャンになるには、仏教の密教のように大変、厳しい修行が求められると解釈する人もいるかも知れませんが、「からし種一粒ほどの信仰があれば、なんでもできる」とイエスは言っています。これは信仰を伴わない行為はすべて徒労に終わることの逆説でもあります。イエス自身は確かに40日間の断食をしたと書かれていますが、クリスチャンの改宗においては、それほど厳しい修行が求めらているわけではない、というのが私個人の経験から言えることです。「後から来たものが先になり、先に来たものが後になる」と言われている通りです。キリスト教の改宗においては、先輩、後輩の序列は全く意味をなしません。ですから3年前に洗礼を受けたばかりの私が聖職者を無視して一人前の説教を垂れることができるわけです。確かに洗礼の前には、修道僧に近い生活を強いられましたが、半年間ほどで洗礼を受けました。そのきっかけは、信仰を認められたことです。逆に言うと信仰以外のものは必要がないということでもあります。その間に経験したことは性行為の誘惑を乗り越えたことくらいでしょうか。もちろん聖書も勉強しましたが、福音書以外はほとんど読んでいません。それと、クリスチャンであるフィリピン人女性の助けです。イエスを理解する上でクリスチャンの存在は助けになると思います。そのフィリピン人女性との出会いが私の人生の中での一番の幸運であったと私は思います。
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