淫蕩生活からのキリスト教への帰依

いったん淫蕩に染まるとかたくなに淫蕩し続ける人がいます。私もその一人だったので、その気持ちはよくわかりますが、私はゴッドマザーであるフィリピン人女性と知り合った時点でその淫蕩の連鎖を断ち切り、洗礼を受けた時点でその罪を赦(ゆる)されました。その救いの業(わざ)はキリストの磔刑(たっけい)つまり十字架への磔(はりつけ)によるものです。その自覚によって、淫蕩生活とは完全に縁を切りました。縁を切れないとあきらめている人がいるとするならば救いの道はキリスト教にあることを知っていただきたいと思います。ここで一つ引用したいと思います。


「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にはある。」(新約聖書・ルカによる福音書・第15章)


3つの共観福音書の中でも、このような文脈でキリスト教への帰依について述べられているのはルカの福音書だけです。教会の中でもこのキリストの説教については賛否両論あるものと思われます。私が一番最初に出会った神父も私のキリスト教への帰依については初めから絶望していました。まず、善行を行うことを勧めていたようですが、キリスト教においてはその点において順序を間違えてはいけません。その点を誤解している人はその神父に限らず多いと思いますが、皆さんが善行を行うのは、一人前のクリスチャンになってからです。その根拠は次の説教にあります。


「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」(新約聖書・マタイの福音書・第6章)


ここで言われている報いとは一人前のクリスチャンになることです。つまり、私の場合で言うと淫蕩生活と完全に縁を切った状態になることです。これがキリストの救いの業です。ですから、やみくもに善行を積めばよいどころか、一人前のクリスチャンになるまでは、善行はむしろ慎んだほうがよいという一見、逆説的なことが言えるわけです。洗礼においては信仰告白を行いますが、信仰告白のために善行を積む必要はありません。信仰とはキリストを信じることです。そこで次のように書かれています。


「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(新約聖書・マタイの福音書・第6章)


これは物欲について戒めている箇所ですが、キリスト教への帰依はかなりストイックな側面があります。そこは仏教と似ている点もあると思います。ですから、私の場合は必要ありませんでしたが、場合によっては修道院に入ることが必要とされるケースもあると言えるかもしれません。しかし、仏教のように荒行をする必要があるとは思えません。信仰さえあれば、誰でもクリスチャンになれるものと私は思います。そこで次のように書かれています。


「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(新約聖書・マタイの福音書・第13章)


私はこれを読んだとき、ゴッドマザーであるフィリピン人女性を思い浮かべました。つまり、ゴッドマザーから信仰を受け継いでいるのだから、そのまま信じて待てばよいのだと、そう思ったわけです。


以上が淫蕩をモチーフにした私のキリスト教への帰依の全貌です。





キリスト教の概要

キリスト教に関する基本的なことをまとめておきました。

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