修行中の葛藤について
マタイの福音書だったと思いますが、「あなたがたは、裁きの日には自分の話したあらゆるつまらない言葉について責任を問われることになる。」とイエスは言っています。これはおそらく洗礼後のクリスチャンの言動に対する予言であると思います。ちょっと厳しいことを言っているようですが、逆に考えるとそれが私たちクリスチャンの生きる指標ともとれるわけです。ですから、軽はずみに成田山を参拝したりすると苦しむことになるですが、これはクリスチャン独特のモラルであると考えられます。私たちクリスチャンは洗礼を受けることで世に対して自由になったわけですが、クリスチャンになるとその言動のパブリシティが問題になってきます。クリスチャニティを否定するような言動をとると、その責任を問われることになるんだと思います。
また、イエスは大勢の人にパンをさいた後、船の上で弟子たちに向かって「ファイサイ派のパン種に気をつけなさい。」と言っています。イエスはファリサイ派を偽善者とみなしているわけです。これは、現在の日本で言うと、取りも直さず仏教徒ということになります。私も修行中は、仏教徒の誘惑に遭い、苦しんだことがありました。某新聞のタレント僧侶の説教を読んだときや、お盆の行事で、地域が仏教モードにつつまれたりしていると、心が葛藤し非常に苦しんだことをよく覚えています。キリスト教内でもいろいろな人たちがいますから、単純に修道院に入ればよいという問題でもないと私は思います。異教徒の誘惑はありませんが偽善の誘惑はキリスト教内でもあります。そういう有志の人たちの心の支えになるのが私たちクリスチャンの役割だと思います。
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