堅信の秘跡には実体がない
カトリック教会には聖職者が行うことができるされている七つの秘跡という業(わざ)がありますが、堅信の秘跡というのもそのうちの一つとされ、洗礼と同時に行われる場合と使徒行伝に記されているペンテコステというイエスが昇天したのちに聖霊の恵みが信者たちの上に注がれたとされる日に行われる場合とがあります。しかし、実際に聖霊の恵みが注がれる日というのは、回心体験といってその人まちまちであり、聖職者の業によるものではありません。したがって、カトリック教会の形骸化した部分を排除しているプロテスタントにおいては、そのような儀式は存在しません。ですから、堅信という概念は、回心体験のシンボライズされたものと解釈すればよいと思います。つまり、信者としてのゴールではなく、スタートであると解釈すればよいと思います。そういう意味で洗礼と同時に行う教会が多いと思うのですが、私もそれでよいと思っています。問題は洗礼をどう行うべきかという点にあるのですが、それについては非常に複雑な問題であり、私も即答はできません。逆に言うと洗礼を受けた信者が回心するのは時間の問題であり、あくまでも洗礼のための悔い改めと信仰告白とそれを正当に扱うことのできる聖職者の業にかかっていると思います。私自身は、そういう意味では恵まれていたと思いますが、「求めなさい、与えられる」(マタイの福音書、第7章)というイエスの言葉を皆さんにも是非、信じていただきたいと一信者として私は願っています。
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