復活のイメージ
マタイの福音書の第25節にあるキリストの説教の中で、キリスト教の伝統的な概念である「最後の審判」をキリストが予言していますが、これが果たして私たちの復活を現すものであるのかというというところに私は少し疑問を感じます。「復活」と「最後の審判」を掛け合わせるとシスティナ礼拝堂の「最後の審判」のようなイメージになるわけですが、キリストは「復活についての問答」の結論として、「復活の時には、あなたがたは嫁ぐこともめとることもなく、ただ天使のようなものになるのだ。」と言っています。天使のようなものになって復活したわたしたちが、あのような筋肉隆々な姿となってよみがえり、羊と山羊によりわけられ、裁かれるということに私は疑問を感じるわけです。羊と山羊とはとりもなおさず、クリスチャンとアンクリスチャンのたとえであり、クリスチャンの遺伝子というものはペンテコスタ以来、脈々と受け継がれている、聖霊の恵みであり、キリストはいつの時代においてもクリスチャンとアンクリスチャンを選り分け続けているという解釈してもよいのではないかと思うわけです。キリストはつねに天において王として君臨し続けているのであり、わざわざ、降臨して裁判を開くまでもないというわけです。たしかに、人の子は雲に乗ってやってくるとキリストは言っていますが、そのタイミングは人それぞれであり、それは裁判というよりもキリストの救済のイメージを現しているといったほうがしっくりくると私は感じます。雲に乗って救済に訪れるのであり、そのタイミングは人それぞれであるというこです。「すべての民族を裁く」というのは時空を超えて人々を選り分けられるのであり、それを凝縮して表現した結果がが、例の羊と山羊のイメージなんじゃないかと思うわけです。あえてシスティナ礼拝堂を正当化するとするならば、「時と場所を選ばず雲に乗って降臨したイエスによる救済のイメージを凝縮したもの」とでも言えばよいでしょうか。しかし、復活のイメージとはかけはなれたものであると言わざるをえません。復活を現すにはあまりにも世俗的なイメージだと思います。復活が私たちの希望だとしても、それは二次元では表現できない、もっと崇高なものだと思われます。
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